第一話

消えかけた墓譜《はかふ》

村へ入る道は、途中で街道から細くそれていた。

雨は夜のうちにやんだらしい。草の先に残った水が、ひよりの足もとで細かくはねる。肩紐をかけ直すたび、旅譜帳と折り譜板、色粉を入れた小箱、防湿布が背中で小さく鳴った。

どれも重いほどではない。けれど坂道は、荷の重さとは別のところをじわじわ削ってくる。

「なんとかなるっしょ。」

ひよりは息を整えるように、小さく言った。村にいたころからの癖だった。畑の石を運ぶときも、雨の日に橋を渡るときも、先にそう言ってから足を出す。言葉の中身に根拠があるかは、あまり考えたことがない。

道の先に、石を積んだ小さな橋が見えた。

欄干の片側だけ、古い木で継ぎ足されている。新しい木ではなかった。何度も雨に濡れ、日に焼け、通る人の手で撫でられて、木目の高いところだけが黒く沈んでいる。誰かが毎日触れてきたものは、古びるというより、村の一部になっていくのだとひよりは思った。

その橋のたもとで、女が待っていた。

旅譜師たびふじさん?」

「初級認定です」

ひよりはあわてて札を出した。革紐で首から下げた小さな認定札は、正式な旅譜師のものより薄く、端の刻印も簡素だった。

女は札を見て、少しだけ迷う顔をした。それから、困ったように笑った。

「それでも、来てくれて助かりました。うちでは、もう誰も描けなくて」

女の名は、さえといった。

村の奥には、畑と水路が寄り合うように並んでいた。水路の縁には、昨日の雨で流れた土が薄く残っている。家々は低く、屋根の下に干した布が湿った風を受けて重たげに揺れていた。

ひよりが通ると、何人かが顔を上げた。けれど目が合う前に、すぐ畑や桶へ視線を戻す。旅人が珍しいというより、旅人を呼んだ用事のほうを見たくない、そんな目だった。

さえは、村の端にある小さな祈り場へひよりを案内した。

祈り場といっても、建物は納屋ほどの大きさだった。土壁に白い粉がところどころ残り、扉の上には古い譜が一枚、湿気を避けるように斜めに掛けられている。中には火の跡があり、壁際にいくつかの墓譜はかふが並べてあった。

そのいちばん端。

さえが差した譜は、ほとんど消えかけていた。

「父のです」

中央に名があったはずの場所は、淡い灰色ににじんでいた。まわりの線も、雨に濡れた道のようにほどけている。ひよりは身をかがめ、息を小さくした。

かろうじて、名前の一部が読めた。

とうじ。

その名のまわりに、いくつかのものが描かれていた。石をならすための小さな槌。水路に置く板。丸い椀。橋の欄干らしい線。だが、どれも輪郭が途切れていて、何を示すのかは聞かなければわからない。

そして右下に、白く抜けた場所があった。

そこだけ、紙が破れたわけではない。汚れが落ちた跡でもない。線がその手前で止まり、少しだけ向きを変え、それ以上進まない。描きかけてやめたのか、最初から空けたのか。ひよりは顔を近づけ、紙の毛羽立ちと色の沈みを見た。

欠けているようにも見える。

残されているようにも見える。

見れば見るほど、どちらとも決められなかった。

ひよりはそこを長く見すぎたことに気づき、顔を上げた。

「描き直し、ですね」

「はい。できるだけ、元の通りに」

さえは両手を重ねていた。指先が少し赤い。水仕事のあとだったのかもしれない。

「消える前に、きちんと残したくて。父は、この村の水路を見ていた人です。雨が降る前も、降った後も、誰より先に見に行って。橋も、あそこの橋をよく直していました」

「橋の欄干、継ぎ足されていました」

「父が最後に直したところです」

ひよりは旅譜帳を開いた。新しいページの上に、日付と村の名を書きかけて、手を止める。村の名は聞いていない。

「村の名前、書いてもいいですか」

「ありません」

さえは少しだけ肩をすくめた。

「ないというか、外の人に言う名がないんです。街道の人は、橋の奥の村、と呼びます」

「橋の奥の村」

ひよりはそのまま書いた。正式な名ではない。でも、今ここで使われている名だった。

「聞かせてもらってもいいですか。とうじさんのこと」

さえはうなずいた。

はじめは、仕事の話だった。

とうじは水路の石を積み直すのがうまかった。少しの傾きを見ただけで、次の雨でどこが崩れるかわかった。槌の音は朝と昼で違い、夕方にはほとんど聞こえない。疲れると黙る人だったが、怒っているのではなく、水の音を聞いていただけだとさえは言った。

「水の音、ですか」

「はい。詰まっていると、音が違うって。私は聞いても、同じにしか聞こえませんでした」

さえは少し笑った。

「父は、雨上がりの朝がいちばん忙しかったんです。誰かがまだ寝ているうちに外へ出て、石を直して、板を置き直して。戻ってきたころには、膝まで泥で黒くなっていました」

ひよりは、槌の隣に細い水の線を描き足すための印を旅譜帳に取った。泥のことも書こうとして、いったん筆を止める。墓譜に泥を描くなら、汚れではなく仕事の跡として描かなければならない。

次に、食べ物の話になった。

とうじは豆粥が好きだった。熱いものを熱いまま食べられず、いつも椀を両手で包んでしばらく待つ。その間に、子どもたちが横から豆だけすくっていく。とうじは気づいているのに、気づかないふりをした。

「それは、描いていいですか」

「はい」

さえは初めて、はっきり笑った。

「父の墓譜に豆粥があるのを、子どものころ変だと思っていました。でも、今はあれがないと父じゃない気がします」

ひよりはうなずいた。

名と年だけでは、人は残らない。そう習ったことがある。けれど、何を残せばその人になるのかまでは、誰もはっきり教えてくれなかった。

祈り場の戸口から、小さな顔がのぞいた。

「ゆい」

さえが呼ぶと、子どもは隠れるでもなく中へ入ってきた。七つか八つくらいだろうか。手には欠けた木札を持っていた。薄い板に、丸い椀のようなものと、曲がった線が描かれている。ゆいの指先には、乾ききらない色粉が少し残っていた。線は途中で途切れ、端に小さな点が三つ並んでいた。

「描き直すの?」

「そうよ。旅譜師さんにお願いしているの」

「初級認定です」

ひよりが言うと、ゆいは不思議そうに認定札を見た。

「初級だと、消えないの?」

「消えにくくは、できます」

言ってから、ひよりは少しだけ後悔した。言い切るには、紙の状態が悪すぎた。

墓譜は古い。湿気を吸い、端が波打っている。描き直すことはできる。防湿の処置もできる。でも、二度と消えないものにはできない。

ひよりは小箱から小灯鉱を取り出しかけ、すぐに戻した。まだ昼だ。灯りを使わなくても見える。小灯鉱は便利だが、使えば減る。ここで必要なのは、明るくすることではなく、ちゃんと見ることだった。

「見ていてもいい?」

ゆいが聞いた。

「うん。でも、まだ描かないよ。先に話を聞く」

「話なら、じいじのこと?」

「うん」

ゆいは墓譜の前にしゃがみ、消えかけた線を指でなぞらないよう、空中で止めた。

「じいじ、橋のところでよく座ってた」

「橋を直していたから?」

「ううん。見てた」

さえの息が、そこで一度止まった。

ひよりは、筆記の手を止めた。

ゆいは気づかずに続けた。

「坂の下の道。誰か来ないかなって」

さえが小さく首を振った。やめて、というほど強くはない。ただ、そこに触れないでほしいという動きだった。

「それ、あとで教えて。」

ひよりは、ゆいに向けて言った。ゆいは口を半分開けたまま、ひよりとさえを見比べた。

「あとで?」

「うん。今は、さえさんの話を聞く」

ゆいは少し不満そうにしたが、うなずいた。

ひよりは旅譜帳の余白に、橋、坂の下、とだけ書いた。そこで筆先が止まる。続きを書きたがっている自分に気づき、指に力が入った。

自分は今、何を書こうとしたのだろう。

「ゆい、外で待っていて」

さえの声はやさしかった。ゆいは木札を胸に抱いて出ていった。

祈り場の中に、湿った紙の匂いだけが残った。

「すみません」

さえは墓譜を見たまま言った。

「子どもは、見たことをそのまま言うので」

「いいえ。大丈夫です」

「今、無理に聞くことではないと思いました」

さえは何も言わなかった。

ひよりは、旅譜帳の余白をもう一度見た。橋、坂の下。たったそれだけの言葉が、他の聞き取りより濃く沈んでいる。

午後、ひよりは村の人たちにも話を聞いた。

とうじは、道を直す人でもあった。雨で土が流れれば、まだ暗いうちに石を運んだ。水路に葉が詰まれば、ひとりで腰まで濡らして取り除いた。人に礼を言われると、「先に水を見ろ」とだけ言った。

「口癖ですか」

「そうだな。水は待ってくれないから」

「怖い人でしたか」

「怖くはない。ただ、話が短い」

村の男はそう言って、橋のほうを見た。

「槌の音で、父さんがどこにいるかわかったもんだ。朝は早い。昼は少し重い。夕方になると、もう叩かない。水の流れる音だけ聞いてる」

別の人は、とうじが古い紐を捨てられない人だったと言った。まだ使える、と言って、どんな短い紐も梁にかけていた。村の子どもが遊びに使うと、叱らずに結び目だけ教えた。

ひよりは、槌、水路、橋、豆粥、結び紐、と旅譜帳に並べた。

それだけで、墓譜は描ける。

中央に、とうじの名。周囲に、仕事と好きなものと、関わった人たち。村で歩いた道。よく触れていた道具。生きていたときの手の動き。

でも、右下の空白が残る。

夕方、さえの家で湯をもらった。湯気の向こうで、さえは古い布包みを持ってきた。

「父のものです」

中には、細い紙片が一枚あった。色の抜けた、押し花が挟まれている。花の名は、ひよりにはわからなかった。花弁は薄く、触れれば崩れそうだった。

「これは」

「母が、昔、父に渡したそうです。旅に出る人に渡す花だって。父は旅になんて出ませんでしたけど」

さえは笑ったが、その笑いはすぐに消えた。

「母が亡くなってから、父は橋にいる時間が増えました。坂の下の道を、ずっと見ていました。あの道は、母が嫁いできた道です。母の親戚は、もう誰もこちらへ来ません」

さえは、そこで言葉を切った。

「父も、その話になると、短い返事すらしませんでした」

ひよりは紙片を受け取らなかった。受け取ってしまうと、それを描かなければならない気がした。

「墓譜に、花を入れたいですか」

さえは、長く黙った。

「わかりません」

ひよりには、それがいちばん正直に聞こえた。

「父は、母のことをあまり話しませんでした。だから、残していいのか、残さないほうがいいのか」

「さえさんは、どう思いますか」

「私は、忘れたくないです」

さえは紙片を閉じた。薄い花弁が紙の内側でかすかにずれた。

「でも、父が忘れたかったのかもしれない。そう思うと、怖い」

ひよりはうまく返事ができなかった。

忘れたくない。

それは、ひよりにもわかる気がした。旅譜帳に書き留めるたびに、こぼれ落ちるものを少しだけ受け止められた気がする。残すことは、たぶん良いことだと信じている。

けれど、残すことで傷つく人がいるなら。

その先を考えると、足元の板が薄くなるようだった。

夜、祈り場に戻ると、外はもう暗かった。

ひよりは小灯鉱を指先で包んだ。ほんの少しなら、灯せる。湿った墓譜の状態を見るには必要だ。だが、描く線を考えるために使うのは違う気がした。

小灯鉱を水皿の横へ置き、防湿布を広げる。薄く灯した光は、紙の表面だけを淡く照らした。消えた線の跡が、濡れた葉脈のように浮かぶ。右下の空白は、やはり最初から空いていた。

前にこの墓譜を描いた人は、何かを知らなかったのだろうか。

それとも、知っていて描かなかったのだろうか。

ひよりは筆を持ち、しばらく動けなかった。

正しく描くなら、聞いたことをすべて入れるべきなのかもしれない。橋で坂の下を見ていたこと。母から渡された押し花。来なかった誰かを待っていたかもしれないこと。

でも、それは本当に、とうじの墓譜に描くことなのだろうか。

さえは、忘れたくないと言った。

同時に、怖いとも言った。

ひよりは旅譜帳を開き、今日の聞き取りを見返した。豆粥の横に、子どもが豆をすくう、とある。槌の横に、水の音を聞く、とある。結び紐の横に、結び目を教える、とある。

どれも、誰かが笑いながら話したものだった。

坂の下の道だけ、笑いがなかった。

「なんとかなるっしょ。」

村にいたころの調子で、言ってみた。けれど声は祈り場の壁に吸われただけだった。

なんともならないことがある。

ひよりは新しい紙を広げた。防湿の下地を薄く塗り、乾くまで待つ。中央に、とうじ、と名を書く。文字は大きすぎないようにした。色粉は水を含むと、指先に細かな砂のように残った。名のまわりに、槌と水路の線を置く。水路はまっすぐではなく、村の畑へ曲がる形にした。

左上に、豆粥の椀。椀の縁には、小さく欠けたところを描いた。さえが、父の椀はいつも同じ向きで欠けていたと言ったからだ。

右上に、結び紐。短い紐が三本、梁にかかっている形にした。

下には、橋の欄干。継ぎ足された木の色だけ少し変えた。

そして、右下。

ひよりは細い線を引いた。橋から坂の下へ向かう線。だが、途中で止めた。

その先には何も描かなかった。

空白を残すために描かないのではない。描けなかった。聞いたことをそのまま形にすれば、そこに押し花も、待つ背中も、来なかった人の気配も入れられる。

でも、なんとなく、ここは描いてはいけない気がした。

ひよりはその空白の端に、とても小さく点を置いた。描き足しの始まりにも、終わりにも見える点だった。

墓譜の隅には、自分の名を入れた。

ひより。

初級認定の小さな印。描き直した日付。

その横に、迷ってから短く書いた。

描き足しは、ここに。

朝、さえは新しい墓譜を長いあいだ見ていた。

ゆいも横からのぞきこんだ。豆粥のところで笑い、結び紐のところで自分の指を結ぼうとして失敗した。それから、右下の空白を見つけた。

「ここ、ない」

ひよりは身を固くした。

さえは、何も言わなかった。

ゆいは自分の木札を胸から離し、そこに描いた途切れた線を見た。それから、墓譜の空白をもう一度見た。

「忘れたの?」

ゆいが聞いた。

ひよりは筆箱の蓋を閉める手を止めた。

「忘れたくないな」

それは答えになっていなかった。

でも、さえがゆっくり息を吐いた。

「ここに、描き足してもいいんですね」

「はい。今でなくても」

ひよりは言った。

「さえさんが描いても、誰かに頼んでも。描かなくても」

言ってから、自分で驚いた。描かなくても、という言葉は、習った通りの言い方ではなかった。

でも、さえはその言葉にうなずいた。

「父は、橋をよく直しました」

さえは墓譜の橋を指でなぞらず、少し上を撫でた。

「水路も。豆粥も。紐も。これは、父です」

それから、空白を見た。

「ここも、父です」

ひよりは返事ができなかった。

祈り場の外で、朝の水音がした。誰かが水路の板を外している。橋のほうから、子どもの声が聞こえた。

さえは古い押し花の紙片を持ってきた。

「これは、私が持っておきます」

「はい」

「でも、いつか描きたくなったら、そのとき頼んでもいいですか」

「私でよければ」

ひよりは認定札に手を触れ、少し笑った。

「まだ、初級ですけど」

「そのときも初級だったら?」

ゆいが聞く。

「たぶん、少しは上手くなってる」

ゆいは納得したような、していないような顔をした。

村を出る前に、ひよりは橋のたもとで振り返った。

村は、朝の光の中で小さく沈んで見えた。水路の線が畑を分け、家々の屋根の下に布が揺れている。祈り場の扉は開いていたが、中までは見えない。橋の欄干の継ぎ木は、昨日より少しだけ明るく乾いていた。

ひよりは旅譜帳を開き、今日の最後の行を書いた。

橋の奥の村。とうじの墓譜を描き直す。

その下に、少し迷ってから書き足した。

空いているところが、いちばん残っていることもあるのかもしれない。

そこで筆が止まった。

わかった、と書くのは違う気がした。教わった、と書くのも違う。ひよりはまだ、何をしたのか自分で説明できない。

ただ、空白を埋めなかった。

それが正しかったのかは、わからない。

ひよりは旅譜帳を閉じた。坂道の先には街道がある。次の村へ向かう道は乾き始めていたが、ところどころに昨日の雨が残っている。

足を踏み出すと、靴の底で小さく水が鳴った。

ひよりが描き直した、とうじの墓譜

ひよりが描き直した、とうじの墓譜《はかふ》

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