本編 第一話

白紙の旅譜《たびふ》

村を見下ろす坂道で、白紙の旅譜帳を開くひより

十五歳の春、ひよりは村の端にしゃがんでいた。

朝靄がまだ畑の上に残っている。石垣の隙間には昨夜の雨が光り、細い水路を流れる水が、草の根元を少しずつ濡らしていた。

ひよりは膝の上に小さなノートを置き、古い道標の欠けたところを写していた。

道標は、村の入口に立っている。村の外へ向かう人は少ないし、外から来る人はもっと少ない。文字は半分ほど薄れていて、上の角は雨で丸くなっていた。昨日見たときは、ただ古びているだけに見えた。けれど今朝は違った。雨に濡れた石の表面に、消えたはずの細い線が浮いている。

ひよりは顔を近づけた。

線は、昔の道を示しているのかもしれない。今は畑の向こうで途切れている小径。村の子どもたちは、そこをただの草むらだと思っている。大人たちも、もう使わない。

「ひより、畑の手伝いはどうした。道標なんて、昨日も見てただろう」

背後から声がした。

ひよりは振り向いた。鍬を肩にした村人が、石垣の上からこちらを見ている。からかうような声だったが、怒ってはいなかった。

「昨日とちょっと違うんです。雨で、ここの線が出てきてて」

「そんな小さなところ、誰も見やしないよ」

村人は笑って、畑の方へ歩いていった。

ひよりはもう一度、道標を見た。

誰も見ないなら、なおさら消える。消えたら、昨日と今日で何が違ったのか、誰にも分からなくなる。

「……だから、書いておこうかなって」

声は、水路の音に混ざった。

ノートの端には、ほかにもいくつかの小さな絵があった。石垣の欠け。井戸の縁に残る縄の跡。譜学校の裏手にある、誰も読まなくなった古い掲示。ひよりの目は、村の真ん中よりも、いつも端へ吸い寄せられた。人が見落として通り過ぎるところに、まだ何かが残っている気がした。

その日の夕方、村に旅人が来た。

西の空が薄く赤くなり、畑から戻る人々の足音が土道に重なっていたころだった。村の入口の道標のそばに、一人の老人が立っていた。

古い外套を着ている。色は雨と土でくすみ、裾には何度も縫い直した跡があった。肩から薄い譜筒を下げていたが、それが旅譜師たびふじのものなのか、ただ古い紙を入れる筒なのか、ひよりには分からなかった。靴は補修され、紐の先だけが新しい。

「旅人かね。こんな道、もう誰も通らんと思っていたが」

村人の一人が言った。

老人は道標を見上げてから、静かに答えた。

「道は、人が忘れても、少しは残るものです」

ひよりは息を止めた。

その言葉が、朝に見た石の線とつながった気がした。老人の目は村人の顔ではなく、道標の欠けた角と、その影が落ちる土を見ている。

「その筒、譜ですか?」

思わず聞いていた。

老人はひよりを見た。目元に深い皺があったが、笑ったのかどうかは分からなかった。

「譜だったもの、かもしれない」

村人たちは顔を見合わせた。見知らぬ者を泊めることに、ためらいがなかったわけではない。けれど日は暮れかけていて、山道の夜は早い。結局、老人は一晩だけ村の家に泊まることになった。

ひよりは、老人の外套の裾を見ていた。縫い目のあいだに、宿印のような小さな形がいくつも残っている。刺繍ではない。布がこすれて、昔そこに何かが押されていた跡だけが残ったように見えた。

夜、囲炉裏端には村人たちが集まった。

老人は大きな町の英雄や、王の戦の話をしなかった。声は低く、火がはぜる音の方が大きいときもあった。それでも、ひよりは膝を抱えて耳を澄ませた。

閉じかけた橋の話。客が来なくなった小さな宿の譜壁の話。名前を呼ぶ人がいなくなった井戸の話。誰も直さなくなった道標の話。

遠い土地の話なのに、どれも村の端にあるものと似ていた。

老人は、譜筒から一枚の古い譜を少しだけ出した。全部は見せなかった。見えたのは、端の注記と、かすれた日付と、途切れかけた線だけだった。紙は乾いているのに、指を近づけると古い雨の匂いがする気がした。

「この線は、道です。こちらの細い点は、道ではありません。昔、誰かが迷って、戻ってきた跡です」

「そんなものまで描くのか」

村人が言った。

「描かないと、次の人が同じところで迷うかもしれません」

ひよりは古い譜の端を見つめた。点は小さかった。間違いの跡なのに、消されずに残っている。

「でも、全部描いたら、譜がいっぱいになりませんか」

老人の手が止まった。

火の色が、譜の端を赤く照らした。

「なります。だから、手が止まる」

その言葉だけ、ひよりの中で少し重く沈んだ。

老人は、それ以上を説明しなかった。村人たちも、やがて粥の鍋や明日の畑の話へ戻った。ひよりは老人の口元を見ていた。老人は何かを知っているように見えた。でも、知っていることを全部渡そうとはしていなかった。

火が落ちたあと、ひよりは老人に水を運んだ。

家の外は冷えていた。山の輪郭は黒く、村の家々の小さな灯りが、低いところに点々と残っている。老人は道標の方を見ていた。

「眠らないんですか」

「少し、見ていました」

「何をですか」

老人はすぐには答えなかった。

ひよりは、自分の手に小さなノートを持ったままだと気づいた。水を渡すだけのつもりだったのに、いつもの癖で持ってきていた。

老人の視線が、ノートへ落ちる。

「書くのですか」

「ただの覚え書きです。道とか、聞いた話とか」

ひよりは少し恥ずかしくなって、ノートを胸に寄せた。

老人は、村の灯りへ目を戻した。

「景色は誰でも見る。でも物語を残せる人は少ない」

風が、道標の影を揺らした。

ひよりはその言葉をすぐには飲み込めなかった。景色と物語の違いが、分かるようで分からない。けれど、分からないまま聞き流すには、惜しかった。

「私のノート、譜になりますか」

老人は首を傾けた。

「それでいい。最初は、ただ忘れたくないだけでいい」

「忘れたくないだけで、譜になりますか」

「譜になるかどうかは、次に読む人が決めることもあります」

ひよりはノートの表紙を指でなぞった。

次に読む人。そんな人がいるとは、考えたことがなかった。これは自分だけの覚え書きだと思っていた。村の端にある小さな違いを、忘れないためのもの。

老人はそれ以上、何も言わなかった。

翌朝、老人はいなかった。

布団は畳まれていた。湯呑みは洗われ、戸口の横へ伏せてある。囲炉裏の灰のそばに、細い線のような跡が一本だけ残っていた。風でできたのか、杖の先が触れたのか、誰にも分からないほど小さい。

「昨日の人、どこへ行ったんでしょう」

ひよりが聞くと、村人は不思議そうな顔をした。

「昨日の人?」

「ほら、遠い橋の話をしていた……」

「そうだったかね。旅人が来たような気はするが」

ひよりは別の村人にも聞いた。囲炉裏端で長く話していた人にも聞いた。けれど返事は似ていた。

「聞いた、かな。顔がどうにも思い出せん」

怖い、とは違った。

村人たちは普通に朝の支度をしていた。畑へ行く人がいて、井戸へ向かう人がいて、子どもが坂を走っている。誰も老人を隠しているようには見えない。ただ、昨日の夜が、朝の光の中で薄くなっていた。

ひよりは自分の部屋に戻り、小さなノートを開いた。

そこには、確かに書いてあった。

古い外套。裾に宿印のような縫い跡。

薄い譜筒。中身は見えない。

橋の話。井戸の話。戻ってきた人の足跡。

「景色は誰でも見る。でも物語を残せる人は少ない」

ひよりはその一文を指で押さえた。自分の字がある。少し急いで書いたせいで、ところどころ線が揺れている。でも、あった。昨日の夜は、確かにあった。

「覚えてる。私、覚えてる」

声にすると、胸の奥が少し熱くなった。

忘れられることが自然なら、忘れないでいることは、どういうことなのだろう。

ひよりには、まだ分からなかった。ただ、消えていくものを見送るだけではいられなかった。

「忘れたくないな。」

ノートの余白に、そう書いた。

その下に、もう一つ書く。

じゃあ、書いておく。私が。

旅立ちの朝、ひよりは夜明け前に目を覚ました。

十六歳になっていた。

窓の外はまだ青く、山の端だけが薄く明るい。家の中は静かだった。ひよりは寝台の横に並べた荷を、一つずつ確かめた。

革張りの旅譜帳。防湿紙と布のページが混ざっていて、まだ白いところが多い。折り譜板。角を指でなぞると、新しい木の硬さが残っている。色粉の小包。危険、湿度、水、未確認事項。小さな紙片に自分で印をつけたが、まだ包み方に迷いがある。

水筆は布で拭き、腰袋へ入れた。防湿布を広げ、旅譜帳と一緒に小さなノートを包む。

小さなノートは、旅譜帳より古い。角は丸く、表紙の端は手の油で少し濃くなっていた。十五歳の春から、ひよりは何度もそれを開いてきた。

「旅譜帳、折り譜板、色粉……水筆」

ひよりは小さく声に出した。

腰袋。方位針。補修道具。宿印帳。まだ最初のページは空白のまま。余白布は外套の内側に縫い込まれている。印は少なく、布そのものの白さが目立った。

最後に、革紐に下げた認定札を手に取る。

初級認定旅譜師の札は、思っていたより薄かった。組合で受け取ったときは、もっと重く感じたのに、朝の手の中では軽い。刻印も、正旅譜師のものより簡素だと聞いている。

それでも、これがなければ入れない宿がある。話を聞いてもらえない場所がある。

ひよりは札を胸前の内袋へしまった。

「小さいノートも、持っていく」

防湿布の端を折り込む。

「これは、旅の前からの譜だから」

外へ出ると、村はもう起き始めていた。

家の入口には、譜学校の教師が立っていた。手には古い布袋を持っている。中には乾いた食べ物と、道で使う小さな紙片が入っていた。

「その印があれば、一般街道と旅人宿では話を聞いてもらいやすい」

教師はひよりの胸元を見た。

「でも、危ない道には入るんじゃないよ」

すかさず言ったのは、近くにいた年配の女性だった。

「国家管理区域や閉鎖街道は、正旅譜師でも簡単じゃない。保証譜が要る」

教師が言い添えた。その声は、いつもの授業より少し柔らかかった。

ひよりは背筋を伸ばした。

「分かってます。無茶は……たぶん、しません」

「たぶん、が一番心配なんだよ」

年配の女性が言うと、周りの村人たちが小さく笑った。

笑い声の中に、心配が混ざっている。ひよりはそれを一つずつ聞こうとして、何度も返事をした。

腹が減る前に食べなさい。雨の前に防湿布をかけなさい。旅人宿の譜壁を見たら、この村へ通じる道のことも書いておいてくれ。知らない人の案内譜を、すぐ信じるんじゃないよ。

どれも短い言葉だった。けれど、一つ聞くたびに、出発が少し遠くなる。

井戸のそばで、近所の子どもがひよりの外套を引いた。

「ひより、村のことも描く?」

「うん。最初に描く」

「じゃあ、ぼくの家も?」

「描けたら」

「描いてよ」

子どもの声は、当然のようだった。村はここにある。家もある。だから描けるはずだと信じている。

ひよりも、昨日まではそう思っていた。

「……うん。忘れないようにする」

そう答えると、子どもは満足したように走っていった。

村の出口へ向かう坂道で、ひよりは一度立ち止まった。

そこからは、村が見下ろせる。山の斜面に畑が段々に並び、細い水路が朝の光を拾っている。井戸。譜学校。石垣。家々の屋根。煙の細い線。十五歳の春に老人が立っていた道標。

ひよりは旅譜帳を開いた。

白いページが広がる。

最初に描く、と言った。村のことを。ここで育ったことを。見送ってくれた人たちを。老人の言葉が消えずに残ったことを。

青の粉を、水路の線へ置きかける。

でも、水路だけでは足りない。そこに桶を沈める手がある。子どもが落とした木片を拾う声がある。夏に水が細くなったとき、誰が先に畑へ引くかで言い合った日のこともある。

緑の粉を畑に使おうとして、手が止まった。

畑は緑だけではない。土の重さがある。鍬の跡がある。朝一番に来る人と、昼近くにしか来られない人がいる。石垣の欠けを直した手も、直さないまま通り過ぎた理由もある。

井戸を描けば、そこで交わした声まで描きたくなる。

譜学校を描けば、閉じた教材譜の匂いまで残したくなる。

道標を描けば、老人の立っていた夕方が戻ってくる。

「山、畑、水路、井戸、譜学校……」

ひよりは小さく並べた。

多すぎた。

多すぎる、と思った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。世界は広いから大変なのだと思っていた。遠い町や、閉じかけた橋や、誰も知らない井戸を描くのが旅譜師なのだと思っていた。

でも、自分の村ですら、描き切れない。

「全部、描けばいいと思ってた」

白いページは、広い。広いのに、足りなかった。

水筆の先で溶けた青い粉が、ぽたりと乾いた土に落ちた。

ひよりは筆を置いた。描けないからやめたのではない。何を描けばいいのか、まだ分からなかった。何を描かずに残してよいのかも、分からなかった。

しばらく、風だけがページを揺らした。

ひよりは、白紙ページの端に小さく日付を書いた。

その下に村の名前を書こうとして、止まる。

この村の名前だけで、足りるのだろうか。地図にもほとんど載らない村。外の人には、山あいの小さな村としか呼ばれない場所。それでも、ここに暮らしている人たちは、自分の家の前の石の形を知っている。

ひよりは、代わりに問いを書いた。

「この村のことを、私はどれだけ知っていたんだろう」

その一文の周りには、まだ何も描かなかった。

答えではなかった。

ただ、分からないまま置いた小さな印だった。白紙の中で、その問いだけが、朝の光を受けて少し濃く見えた。

ひよりは旅譜帳を閉じた。

防湿布で包み、胸前の内袋へしまう。折り譜板を背に直し、腰袋の重さを確かめる。少し重い。持ちすぎだと分かっている。でも今日は、何を置いていけばよいのかも、まだ分からなかった。

道標のそばを通る。

十五歳の春、老人がそこに立っていた。今は誰もいない。石の表面には、朝の光で細い影が伸びている。あの雨の翌朝に見えた古い線は、今日はほとんど見えなかった。

ひよりは少しだけ振り返った。

村人たちは、もう小さくなっていた。手を振っている人がいる。声は届かない。けれど、手の動きだけで、まだ何かを言っているのが分かった。

ひよりは深く息を吸った。

大きな決意は、うまく出てこなかった。不安はあった。胸の内袋の旅譜帳は、さっきより確かに重く感じた。

それでも、足は前へ出た。

道標の影が、朝の光で細く伸びている。

彼女はその影をまたぎ、村の外へ一歩出る。

旅譜たびふは、まだ白い。

けれど、その白さは空っぽではなかった。

開かれた旅譜帳の白い見開き。端に小さく、この村のことを、私はどれだけ知っていたんだろう、と書かれている

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