雨は、昼すぎに上がっていた。
けれど街道の土は、まだ水を含んでいた。踏むたびに靴底が浅く沈み、泥が革の縁へ薄くついた。ひよりは肩掛けの端を引き寄せ、胸の内側に入れた旅譜帳のふくらみを確かめた。
村を出てから、最初の宿だった。
街道の先で、低い屋根が見えた。煙突から白い煙が細くのぼり、軒下には濡れた外套が何枚も吊られている。入口の横には、雨を避けるように大きな板が立てかけられていた。
板には、色の薄れた線が幾重にも走っていた。道。井戸。橋。小さな宿の印。誰かが後から足したらしい点や矢印。古い紙片が重なり、端がめくれている。
譜壁だ。
ひよりは足を止めた。
板の上で、古い線と新しい線が重なっていた。どれが最初に描かれたものなのか、すぐには分からない。日付のような小さな記号が、雨染みの奥に沈んでいる。はがれかけた紙片の下には、別の短い注記が隠れていた。
見たい。
そう思った瞬間、宿の戸が開いた。
「泊まりかい」
出てきた女は、ひよりよりずっと年上だった。背は高くないが、腰の据わった立ち方をしている。袖を肘までまくり、手には濡れた布巾を持っていた。
「はい。あの、旅譜師です」
ひよりは慌てて胸元を探った。革紐に下げた認定札が、指先に当たる。引き出すとき、少し引っかかった。
女は札を受け取り、刻印を見た。
「初級認定だね」
「はい」
言葉が少し硬くなった。
女は札を返した。笑いもしなかったが、眉をひそめもしなかった。
「私はまき。この宿を見てる。譜壁を見るなら、先に荷を置いて、手を洗ってからにしな。泥の手で触ると、紙が持っていかれる」
「すみません」
「謝る前に、荷」
まきは戸を大きく開けた。中から、煮た根菜の匂いと、湿った木の匂いが流れてきた。
ひよりはもう一度だけ譜壁を見た。古い線の端に、小さな空白がある。その空白の前で、線が迷うように細くなっていた。
あとで見よう。
そう決めて、ひよりは宿の中へ入った。
宿の中は、外から見たより狭かった。
帳場の灯りは一つだけだった。小灯鉱の淡い光が、木の柱と吊るされた荷札をぼんやり照らしている。広間の奥では、旅人たちが椀を手にしていた。濡れた外套、泥のついた靴、荷綱、古い杖。人と物の匂いが、湯気の中で混ざっている。
まきはひよりの荷を壁際に置かせ、桶を指さした。
「水はそこ。湯は少ないから、手だけ」
「はい」
ひよりは手を洗った。水は冷たかった。指の節についた泥が、少しずつ落ちていく。
「夕飯は根菜粥と干し肉。食べられるかい」
「食べられます」
「それなら座りな。譜壁は逃げない」
まきは布巾を肩に掛け直し、椀を並べ始めた。
宿守は、譜壁の前に立って説明してくれる人だと、ひよりはどこかで思っていた。けれど、まきは戸を閉め、椀を出し、火を見て、馬小屋から戻った男に干し布を渡し、帳場の小さな板に宿代を書きつけた。譜壁は、その全部の仕事の横にあった。
食事のあと、まきはようやく壁の前に立った。
「見るだけなら自由。写すなら、先に言って」
「はい」
広間の壁には、宿譜があった。
宿の部屋数、井戸の場所、馬をつなぐ軒、近くの薬師、雨のときに崩れやすい坂。絵と線と短い注記が、淡い色でまとめられている。その横には、宿帳譜が下げられていた。泊まった旅人たちが、一言ずつ残していくものらしい。
南の道、泥深し。荷車は半刻余計に見ること。
西の井戸、まだ水よし。
春祭りは今年も小さく行う。
ひよりは一つずつ読んだ。文字だけではない。丸の大きさ、線の濃さ、余白に置かれた点の数が、それぞれの切実さを少しずつ変えていた。
壁の中央より少し右に、古い街道譜が貼られていた。
北へ伸びる線が一本。途中で橋を越え、その先の小さな家並みへ続いている。線の横には、薄い字で短く書かれていた。
北の旧道、早し。
「これ、古いですね」
ひよりが言うと、まきは粥の鍋に蓋をしながら答えた。
「古いよ。私がこの宿を継ぐ前からある」
「今も使われますか」
「使う人はいる。減ったけどね」
注記の下に、雨染みがあった。そこに、誰かが後から細い点線を足している。点線は橋の手前で止まっていた。日付は読みづらい。
「遠話譜は、ありませんか」
「あった」
まきは短く言った。
「二年前まで。光文柱も、もう灯らない。鉱代が上がって、町の方で先に切った。ここらは、宿へ来る人の口と、壁に残る一言が頼りだよ」
ひよりは、譜壁を見上げた。
宿の壁は、ただ古い情報を貼っている場所ではなかった。人が来れば、少し新しくなる。人が来なければ、古いまま固まる。灯りの届かない端で、何年も前の線が今の人を動かすこともある。
戸が開いた。
「まき、粥は残ってるか」
大きな声が入ってきた。荷運び人らしい男だった。肩幅が広く、外套の裾から泥が落ちている。背負い紐の跡が肩に深く残っていた。
「ゴウ。外で泥を落としてから入れって、何度言わせる」
「落とした。だいたい」
「だいたいは、落としてない」
まきは布巾を投げるように渡した。ゴウは笑いながら靴の縁を拭いた。
「北の旧道、昨日通ったぞ」
広間の旅人たちが、少し顔を上げた。
ひよりの手も、旅譜帳の上で止まった。
ゴウは椀を受け取り、壁の旧道譜を顎で示した。
「まだ行ける。遠回りするより早い」
「昨日は雨上がりだったろう」
まきが言った。
「雨は上がってた」
「橋は」
「橋もあった」
「そうじゃない。鳴ったかい」
ゴウは粥を口に運びかけたまま、少し黙った。
ひよりはその沈黙を見た。さっきまで大きかった声が、椀の湯気の向こうで少し小さくなる。
「……まあ、鳴った。古い橋だ。鳴るくらいは鳴る」
「荷は」
今度は、ひよりが聞いていた。自分の声が思ったより小さく出た。
ゴウがこちらを見た。
「荷?」
「昨日、どれくらいの重さでしたか」
ゴウはひよりの認定札をちらりと見た。
「軽かった。空箱と布だけだ。今日は少し違う」
「今日、何を運ぶんですか」
ゴウは椀を置いた。
「薬包と、井戸具の部品だ。旧道の先の集落で井戸が詰まった。泥水しか出ないって、昨日の夕方に聞いた」
広間が静かになった。
ひよりは壁の旧道譜を見た。北へ伸びる線。その先の小さな家並み。古い注記。
北の旧道、早し。
それは、ただの近道ではなかった。
戸口近くに座っていた若い旅人が、荷袋を引き寄せた。
リクは荷袋の口を握ったまま、橋の絵を見た。指の節が白くなるほど力が入っている。迷っているのは分かった。それでも、彼は顔を上げた。
「俺、その先の分岐まで行きます」
まきが振り返った。
「リク。今からかい」
「暗くなる前に橋まで行ければ、向こうの茶屋で泊まれます。荷だけでも預けたい」
「雨後の橋板は、朝に見る」
「でも、待てば遅れます」
リクの手は荷袋の口を押さえていた。布の中に固いものがあるらしく、角が少し浮いている。薬包を濡らさないためか、袋の上からさらに油紙が巻かれていた。
ゴウが腕を組んだ。
「俺が通れたんだ。若い足なら行ける」
まきは答えなかった。
ひよりは譜壁の前に立った。古い注記と、雨染みと、点線。今、ここにいる人たちの声が、その上に重なっていく。
「書き足しても、いいですか」
まきがひよりを見る。
「何を」
ひよりは旅譜帳から小さな紙片を取り出した。水筆を開きかけ、すぐに止めた。指先に力が入りすぎていた。
旧道危険。
そう書けばいいと思った。
危ないなら、危ないと残すべきだ。誰かがそれを見て止まるなら、その方がいい。ひよりはそう考えた。考えた、というより、手が先にそう動こうとした。
まきの手が、紙片の端を押さえた。
「危険とだけ書くと、あの道の先に人がいることまで消える」
声は強くなかった。鍋の蓋を置くときと同じ、平らな声だった。
ひよりは筆を止めた。
「でも、危ないなら」
「危ないよ。雨後は特にね」
「なら」
「でも、あの道の先の茶屋は、客が来なければ閉じる。集落の人は、宿へ来る者に薬や手紙を頼む。危険と大きく書けば、人は見なくなる。線も、家も、待っている人も、まとめて見なくなる」
まきは壁を見た。
「それで助かる人もいる。困る人もいる」
ひよりは紙片を持ったまま、何も書けなかった。
ゴウが低く言った。
「俺は、あそこを見捨てたいわけじゃない」
「分かってる」
まきはすぐに答えた。
「だから、余計に言葉を丸めるな」
ゴウは口を閉じた。
ひよりはもう一度、旧道譜を見た。線を消すことは簡単だった。赤く囲むこともできる。危険、と書くこともできる。
でも、その線の先には、泥水を汲んでいる誰かがいる。
「古い注記は、消さないで」
ひよりはゆっくり言った。
まきがこちらを見た。
「その横に、仮の注記を置けます。今の情報と、確かめる条件を分けて」
ひよりは腰袋から薄い色粉を出した。青みのある灰色。正式な訂正ではなく、確認待ちの印に使う色だった。村の譜学校で習ったときは、もっと整った板の上で使った。こんな湯気と泥と人の声の中で使うものだとは、思っていなかった。
「未確認のものは、縁を薄くします。雨後、と天候を書きます。あと、橋板。通れた人は日付と荷の重さを足せるように、下を空けます」
「署名は」
まきが聞いた。
ひよりは筆を持つ手を見た。
署名を入れる。旅譜師として書くなら、そうするべきだと思った。けれど、今の自分が見たのは、まだ壁と人の話だけだ。橋を見ていない。旧道を歩いていない。
「入れません」
少しだけ、悔しかった。
「日付と、初級認定の確認印だけにします。明日の朝、橋を見た人が書き足せるように」
まきの口元が、ほんの少しだけゆるんだ。
「それなら、置いてみな」
ひよりは紙片に線を引いた。
水筆の先を指で軽くしごき、灰色の輪郭をわざと薄く逃がすように引いた。
北の旧道、雨後は橋板を確かめること。
急ぎ荷は宿守、または次の郵便師に確認。
通れた者は、日付と天候を添える。
字は短くした。読ませる文字は少なく、線と余白を多くした。紙片の下を少し空ける。そこに、次の誰かが書けるように。
リクがそれを見ていた。
「じゃあ、今夜は」
「泊まりな」
まきが言った。
「荷は帳場で預かる。朝、橋板を見てから決める」
リクは荷袋を抱きしめたまま、少し迷った。けれど、最後にはうなずいた。
「お願いします」
ゴウは頭をかいた。
「俺も朝、見る」
「見るだけじゃなく、ちゃんと音も聞きな」
まきが言うと、広間の誰かが小さく笑った。
その夜、ひよりは寝床で旅譜帳を開いた。
宿の壁。湯気。古い注記。ゴウの大きな声が小さくなったところ。リクが荷袋の口を押さえた指。まきの、危険とだけ書くと、という声。
書こうとして、手が止まる。
「なんとかなるっしょ。」
いつもの言葉を、ページの端に小さく書きそうになった。けれど、今日は少し違った。なんとかするのは、自分一人ではない。まきがいて、ゴウがいて、リクがいて、明朝の郵便師がいる。
ひよりは代わりに、短く書いた。
朝、橋を見る。
小灯鉱の光は、まきが言った通り早く消された。暗くなった宿の中で、雨水が軒から落ちる音だけが残った。
翌朝、空はまだ白く濁っていた。
ひよりは、まき、ゴウ、リクと一緒に旧道の分岐まで歩いた。宿から遠くはない。けれど、道はぬかるみ、草の根元には水が溜まっていた。ゴウは昨日より口数が少なかった。
橋は、分岐の少し先にあった。
ひよりは橋には入らなかった。まきに、ここまで、と止められたからだ。道の端に立ち、濡れた欄干越しに見る。
川は細いが、流れは速かった。水は茶色く濁り、橋脚の根元で白く泡立っている。橋板の一枚が、ほかよりわずかに浮いていた。釘の周りの木が黒く湿り、踏まれれば沈みそうに見えた。
ゴウが橋の手前でしゃがんだ。
「……昨日は、ここまで浮いてなかった」
まきは何も言わなかった。
リクは荷袋を胸に抱いたまま、橋と川を交互に見ていた。唇を噛んでいる。
「今日中には、無理ですか」
「荷を持っては、やめた方がいい」
まきが言った。
「空身でも、私は勧めない」
ゴウが小さく息を吐いた。
「俺が、宿まで戻しておく。橋板は街道守に言う」
「昨日は、鳴った音を小さく聞きすぎた」
「街道守は、いつ来ますか」
ひよりが聞いた。
まきは空を見た。
「早くて三日。遅ければ、次の市のあと」
三日。
その間にも、集落の井戸は泥水を出しているかもしれない。
リクは荷袋を見下ろした。
「郵便師は」
「昼前には来る」
まきが答えた。
「分岐宿までなら、別の道を知ってる。そこから先は、向こうの者に渡せるか聞く」
リクはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりうなずいた。
「預けます」
ひよりは橋板を見ていた。
昨日、自分が書こうとした「旧道危険」という言葉。その四文字の先に、この水音があった。浮いた板があり、泥水を飲む誰かがいて、荷を抱えたリクがいた。
短く書くことは、悪いことではない。
けれど、短くするほど、そこから落ちるものがある。
宿へ戻ると、譜壁の仮注記はまだ同じ場所にあった。まきはその下に、朝の日付と天候を足した。
雨後。橋板一枚浮き。荷持ち渡橋不可。
ゴウが横から見て、低く言った。
「俺の名も、書いていい。昨日通ったって言ったのは俺だ」
まきは少しだけ目を細めた。
「なら、日付の横に荷の重さも書きな」
ゴウはうなずいた。
ひよりはそのやり取りを、旅譜帳に写さなかった。写したかった。でも、今は壁に残る方が先だと思った。
リクは帳場に荷を預けた。油紙の包みを、まきが乾いた布でくるみ直す。部品は小さな金具だった。井戸具の留め輪だという。
「濡らすなよ」
ゴウが言う。
「分かってます」
リクは少しだけ笑った。笑ったが、目はまだ橋の方を向いているようだった。
昼前、まきは帳場の引き出しから小さな箱を出した。
「ひより」
呼ばれて、ひよりは背筋を伸ばした。
まきはひよりの宿印帳を受け取り、古い印を取り出した。木の持ち手は黒くなり、角が少し欠けている。
「うちの印は、旅立ちの証ってほど立派じゃない」
「はい」
「ここで聞いたことの印だよ」
まきはそう言って、宿印帳の最初の空白に印を押した。
小さな印だった。
かすれた丸の中に、重なった二本の線がある。片方は太く、片方は途中で細くなっている。古い道と、新しい書き足しのようにも見えた。
ひよりはその印を見つめた。
嬉しかった。
けれど、胸の奥に、嬉しさだけではないものが残った。昨日の譜壁。浮いた橋板。リクの荷。ゴウの沈黙。まきの平らな声。
「ありがとうございます」
「礼はいい。次の宿でも、ちゃんと壁を見な」
「はい」
まきは宿印帳を返した。
「昼前に郵便師が来る。荷と手紙のことは、その人にも聞いてみるといい」
「郵便師」
「トウマって若いのだよ。道には詳しい。口は少し軽いけどね」
ひよりは宿印帳を閉じた。
壁では、昨日の仮注記がまだ揺れていた。薄い紙片の下には、空白が残っている。次に来た誰かが、日付と天気を書き足せるように。
宿の外で、街道の泥が少し乾き始めていた。
ひよりは荷を背負い直し、胸の内側に宿印帳をしまった。印の乾ききらない感触が、紙越しにほんの少しだけ残っている気がした。
最初の宿印は、思っていたより小さかった。
けれど、その小さな印のぶんだけ、次の宿の壁を見落とせなくなった気がした。