昼前になると、宿の前の泥は薄いひびを作り始めた。
ひよりは軒下の長椅子に座り、乾きかけた靴の泥を小枝で落としていた。朝、橋まで歩いたせいで、裾には新しい泥はねが増えている。
荷はもう背負えるようにまとめてあった。宿印帳も胸の内側にしまった。それでも出発しなかったのは、まきが言った郵便師を待っていたからだ。
待っていたのは、ひよりだけではなかった。戸口の内側では、昨日の若い旅人が荷袋を膝に抱えて座っている。旧道の先の集落へ届けたい薬包を、まだ手放せずにいた。
道には詳しい。口は少し軽い。
どんな人だろう。
街道の向こうから、金具の触れ合う音がした。
現れた若い男は、ひよりよりいくつか年上に見えた。灰色の短い外套を着て、肩から大きな鞄を斜めに下げている。鞄の上には油紙が巻かれ、結び目が歩調に合わせて揺れていた。
男は宿の前まで来ると、軒下へ片足を上げた。
「いやあ、乾いてきたと思ったら、最後の坂だけまだ泥だ。あの坂、旅人の靴を一足ずつ集める気じゃないか」
帳場から出てきたまきが、男の足元を見た。
「トウマ。うちの床まで集めさせるんじゃないよ」
「分かってるって。今日は外で落としてきた。だいたい」
「昨日も同じことを言うのがいた」
まきは戸口に古い布を放った。トウマと呼ばれた男は笑いながら受け取り、靴の縁を拭いた。
ひよりは、まきと顔を見合わせた。
ゴウと同じだ。
その考えが顔に出たのか、まきの口元がわずかに動いた。
「この子が、昨日話した初級の旅譜師。ひよりだよ」
トウマは布を片手に、ひよりの認定札を見た。
「へえ。村を出たばかり?」
「はい。昨日が最初の宿でした」
「なら、いい宿を引いた。壁は古いけど、粥は焦がさない」
「聞こえてるよ」
まきが先に宿へ戻る。
トウマは声を落とした。
「焦がしたの、一度だけらしいけどね」
「聞こえてる」
今度は、帳場の奥から返ってきた。
トウマは肩をすくめた。口が少し軽い、という意味が、ひよりにもすぐ分かった。
けれど、鞄を下ろす手つきは静かだった。
地面には置かない。長椅子の乾いたところを手の甲で確かめ、油紙の継ぎ目を上にして横たえる。紐を解く前に、濡れた袖口を折り返した。
まきが戸口から呼んだ。
「リクの荷がある。薬包と井戸具の留め輪だ」
「旧道の先?」
「分岐宿まで。先は向こうの者に頼めるか聞いておくれ」
トウマの顔から笑いが少し引いた。
「橋は」
ひよりは立ち上がった。
「橋板が一枚浮いていました。雨後で、荷を持った渡橋はできません。譜壁に朝の日付と状態があります」
「見てくる」
トウマは鞄を閉じ直した。頼まれた荷を先に受け取ろうとはしなかった。
宿へ入ると、昨日と同じ譜壁が広間の薄暗がりにあった。
ひよりの置いた紙片は、壁の中央より少し右で揺れている。その下に、まきの日付と、荷運びのゴウが書き添えた荷の重さが足されていた。
トウマは軽口を挟まず、最初から最後まで読んだ。指で文字を追わず、紙にも触れない。顔だけを近づけ、薄い縁と空けられた下半分まで確かめた。
「橋そのものは見た?」
「道の端からです。橋には入りませんでした」
「水の速さは」
「橋脚の根元で白く泡立っていました。水は茶色くて、板の一枚がほかより浮いていました」
「音は」
ひよりは答えかけて、止まった。
川の音は覚えている。けれど、橋が鳴ったかどうかは聞いていない。
「分かりません。近づいていないので」
トウマはうなずき、腰の小さな帳面を開いた。角の丸い紙に、短い線と日付を書きつける。
「分からない、も助かる」
それだけ言うと、帳面を閉じた。
まきが帳場から油紙の包みを出した。トウマは包みの表と裏を見て、結び紐の傷みを確かめる。油紙の端に指を当てたが、封じた折り目より内側には触れなかった。
「分岐宿までは運ぶ。その先は約束できない」
戸口のそばで立ち上がったリクが、すぐにうなずいた。
「お願いします」
トウマは包みを手の中で持ち直した。
「向こうへ渡せなかったら、理由をつけてここへ戻す。急ぐ荷でも、川には勝てないから」
トウマは荷の外側に小さな紙片を結び、自分の帳面にも同じ印を記した。それから、受け取った時刻をまきに確かめた。
話している間も、手は止まらなかった。
ひよりは、トウマの帳面を見ていた。
道の状態。預かった場所。渡す予定の宿。できなかったときに戻す先。
郵便師は、手紙を運ぶだけではないらしい。届くまでの途中も、細い線で残している。
「そんなに見られると、字がきれいになるわけじゃないよ」
顔を上げると、トウマが笑っていた。
「すみません」
「旅譜師は謝る前に聞くんじゃないの?」
まきが湯の入った椀を置いた。
「この子に変なことを教えるんじゃないよ」
ひよりは、椀の前に座った。
「では、聞いてもいいですか」
トウマは干した穀物の薄焼きを一枚取り出した。手のひらほどの大きさで、乾いて縁が薄く反っている。
「食べ終わるまでなら何でも。道と宿と、昨日見た変な形の雲の話もできる」
「預かったものについては?」
トウマの指が止まった。
薄焼きの縁が、ぱきりと小さく割れた。
「それは話さない」
さっきまでの軽さが、そこだけきれいになくなっていた。
トウマは割れた一片を口に入れ、湯を飲んだ。ひよりも、まきが置いた椀を両手で包む。乾いた香草の匂いが湯気に混じっていた。口に含むと少し苦く、そのあとに塩気が残った。
「中身を知らなくても、届けられるんですか」
「宛先と道は外にある」
トウマは薄焼きをかじった。
「中にあるのは、俺のものじゃない」
言い終えると、またいつもの調子で、硬い、と薄焼きに文句を言った。
荷を収めるため、トウマは広間の卓に鞄を下ろして開いた。
中は布の仕切りで細かく分かれていた。油紙の包み。細い筒。折り畳まれた小譜。どれも互いの角が当たらないように紐で留められている。
その底近くに、一通の手紙があった。
ほかの包みより古かった。
厚い紙は何度も湿気を吸ったらしく、波打った跡がある。二つに折られた角は丸くなり、封の糊は暗い色に変わっていた。油紙は新しいものに巻き直されているが、手紙そのものの端には薄い染みが残っている。
油紙の折り目は一つではなかった。古い筋の上へ新しい筋が重なり、包み直すたびに少しずつ形を変えている。トウマが何度この手紙を雨から守ったのか、その数だけは外からでも想像できた。
トウマはそれを取り出し、リクの荷を入れる場所を作った。
手紙を卓へ置く前に、乾いた布を一枚敷いた。
ひよりの目は、表に描かれた宛先の印に止まった。
二つに分かれる道。その脇に小さな四角。下には、ゆるく曲がった一本の線がある。短い注記は擦れていたが、形は読める。
どこかで見た。
ひよりは譜壁を振り返った。
古い街道譜の端。今は紙片が重ねられている場所に、よく似た分岐と四角があったはずだ。
「その宛先を、壁と比べてもよいですか」
トウマは手紙を持ったまま、ひよりを見た。
「外の印だけ?」
「はい。開きません。触りません」
「なら、俺が持つ」
二人は譜壁の前へ移った。
トウマは手紙を胸の高さに保ち、ひよりが宛先の印を見比べられるように傾けた。近づくと、封の古い糊と油紙の匂いがかすかにした。
壁の街道譜は、何度も書き足されていた。
ひよりは紙片の重なりを目で追った。古い分岐は、今の旧道より手前にある。四角の下の曲線は、道ではない。色がほとんど消えているが、水を示す線だった。
「前の川筋です」
ひよりは壁を指した。
「宛先の四角は、昔の分岐と川の間にあります。今の道の上ではありません」
トウマは目を細めた。
「やっぱり、そっちか」
「行ったことがあるんですか」
「三度」
トウマは腰の帳面を開いた。
一度目。家は閉じられ、返事なし。
二度目。春の増水後、屋根と戸口を確認できず。
三度目。川筋が変わり、家印を見つけられず。
どの記録にも日付があり、聞いた相手の名は書かれていなかった。代わりに、宿、井戸、分岐の印が添えられている。
「受取人は、もういないんですか」
ひよりが聞くと、トウマは帳面を閉じた。
「家がないのは見た。人のことは、見てない」
そのとき、宿の戸が開いた。
入ってきたのは、籠を腕に掛けた女だった。籠には乾いた布と、束ねた細い枝が入っている。女はまきに目礼し、それからトウマを見た。
「来てたんだね」
「さっき着いたところ」
女の視線が、トウマの手にある古い手紙へ移った。
「まだ、それを」
「まだ持ってる」
トウマは答えた。
それ以上、何も言わなかった。
女は手紙へ近づかなかった。受け取ろうともしない。ただ、丸くなった角をしばらく見ていた。
まきが籠を受け取りながら、ひよりへ言った。
「かよだよ。宿の干し布を繕ってもらってる」
ひよりは頭を下げた。
「ひよりです。旅譜師をしています」
「そう」
かよは少し笑ったが、目はまだ手紙に残っていた。枝を束ねていた指には細かな傷があり、爪の際に糸の色が残っている。その手を、かよは籠の縁に置いたまま動かさなかった。
かよは手紙から目を離し、ひよりを見た。
「あの家の印、まだ壁にあったでしょう」
ひよりは譜壁を見た。
「古い層にあります。ただ、今の川筋とは合っていません」
「そうだろうね」
かよは籠から布を一枚取り出し、ほつれた端を指でなぞった。
「川が変わってから、戻る場所が分からなくなった」
誰が戻るのか、ひよりには聞けなかった。
トウマも聞かなかった。
かよは、古い手紙をもう一度見た。
「捨ててないなら、それでいいよ」
「捨てない」
短い返事だった。
かよが奥でまきと布を広げ始めると、宿には糸を引く小さな音が続いた。
ひよりは譜壁の前に残った。
古い家印は、今もそこにある。
川筋が変わり、分岐がずれ、家は見つからない。それなら、旅譜師として書き直せる。次の郵便師が同じ場所を探さずに済む。手紙を出す人にも、宛先がないと分かる。
ひよりは腰袋から水筆を出した。
古い家印の横へ、現在なし、と書き足そうとした。
筆先が、壁へ近づく。
背後で、布を畳む音がした。
川が変わってから、戻る場所が分からなくなった。
かよの言葉が、耳に残っていた。
家がないことと、人がいないことは、同じだろうか。
壁に書けば、ここへ来る郵便師は助かる。けれど、この壁を見るのは郵便師だけではない。かよも見る。戻ってくるかもしれない誰かも見る。
ひよりは筆を下ろした。
「書かないの?」
トウマが聞いた。責めるような声ではなかった。
「書けることはあります」
ひよりは答えた。
「前の川筋と、今の川筋の違いです。家印が古い方にあることも。でも、宛先がないとは、私には書けません」
「どうして」
ひよりは、うまく言葉にできなかった。
正確ではないから。確認していないから。それだけなら、昨日この壁の前で覚えたことと同じだ。
それよりも、筆を止めた理由は別のところにある気がした。
「これは、私の記録ではないからです」
言ってから、胸の奥が少し頼りなくなった。
何が自分の記録で、何が違うのか。まだ、きれいには分けられない。
トウマは返事をせず、古い手紙を見た。
ひよりは旅譜帳から小さな紙片を取り出した。壁へ書かず、古い川筋と今の川筋だけを並べて写す。水筆の先を細く整え、確認できた分岐には濃い線を、見えなくなった家印には輪郭だけを置いた。
人の名も、手紙の印も写さなかった。
「この違いは、使えますか」
トウマは紙片を受け取り、自分の帳面と重ねた。
「使える。次に探すなら、川の向こうじゃなく、古い道を知る人から聞ける」
「では、持っていてください」
「君の旅譜には?」
ひよりは白いままの壁の一角を見た。
「書きません。少なくとも、今は」
トウマはその紙片を、自分の帳面の間へ挟んだ。古い手紙とは別の場所だった。
その日の午後、トウマは宿の軒下で荷を組み直した。
リクから預かった包みは、鞄の上側へ。水に弱い薬包は内側へ。古い手紙は底へ戻さず、体に近い仕切りへ入れた。油紙の角を折り直し、紐を二重に掛ける。
ひよりは自分の折り譜板を膝に置き、朝の橋までの道を描き直した。
二人は同じ道を見ていた。
ひよりは、次に通る人が足を止められるように描く。
トウマは、遠くの誰かへ声を運ぶために道を選ぶ。
線の引き方は違っても、途切れたところで立ち止まるのは同じだった。
夕方、乾いた風が軒下を通った。泥の匂いが薄れ、代わりに日に温められた木の匂いがした。
トウマは手紙をしまった仕切りに一度だけ手を当て、それから鞄の口を閉じた。
「明日は東へ行く」
トウマが荷紐を確かめながら言った。
「ひよりは?」
「私も東です。宿譜に、次の町の旅譜資料館のことが書いてありました」
「あるよ。閉めるとか、閉めないとか、半年くらい揉めてる」
「閉まるんですか」
「そこから先は、行って見た方が早い。俺の話は半分くらい風で膨らむから」
「自分で言うんですね」
「手紙以外はね」
トウマは笑った。
翌朝、宿の前の道は、ところどころ明るい土の色を取り戻していた。
ひよりは荷を背負い、まきへ宿印帳を見せた。昨日押された小さな印は、もう乾いている。
トウマも鞄を肩へ掛けた。リクの荷と、何年も届いていない手紙が、その中にある。外から見れば、どちらがどちらか分からなかった。
かよの姿はなかった。
けれど、帳場の横には、繕い終えた干し布がきれいに重ねられていた。
「旧道には入るんじゃないよ」
まきがトウマへ言った。
「分かってる。手紙より命」
「口で言うやつほど怪しい」
「信用がないなあ」
軽口を返しながらも、トウマは譜壁の前で一度止まった。ひよりの仮注記と、朝に加えられた橋の状態を読み直す。腰の帳面を開き、日付の横に短い線を足した。
危険な道を、次へ渡すための記録。
その帳面の別の頁には、ひよりが描いた二つの川筋が挟まっている。
届かなかった理由を、捨てないための記録。
ひよりは旅譜帳を開いた。
書こうとして、少し迷う。
それから、声には出さず、短く記した。
書いた言葉にも、持ち主がいる。
その下は空けておいた。
まだ、自分には続きが書けなかった。
トウマが先に歩き出した。鞄の金具が、朝の空気の中で小さく鳴る。
ひよりも宿を出た。
背後には、何人もの旅人が書き足してきた譜壁がある。前には、閉館するかもしれない旅譜資料館へ続く道が伸びていた。
何を残すのか。
誰が残すのか。
その二つは、同じ問いではないらしい。
ひよりはまだ答えを持たないまま、乾き始めた道を踏んだ。